気ままな地球人・日記編

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Ⅰマイダイアリー(青年期)


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若い頃から、日記を付ける習慣があり、今その日記帳をひもといてみると、家族で行った国内旅行(海外旅行についてはHP「気ままな地球人」で紹介済み)、野外体験等が懐かしく思い出される。当時の原文のままをここに紹介することで、自分の過去の有り様と生き様(ざま)を振り返ってみたい。勝手に Ⅰ:青年期 Ⅱ:壮年期 Ⅲ:塾年期に分けて公開します。


Ⅰマイダイアリー:青年期
1974年.昭和49年
   1月4日 信州スキー旅


名古屋からJR中央線に乗って、松本駅で大糸線に乗り換え、一路南小谷(みなみおたり)に向かう。途中駅の恵那駅からI子さんとK君が乗り込んだ。続いての駅・中津川駅から理科の会のメンバーが乗り込んできた。この急行つがいけ1号はやがて満席になる。我々のメンバーが揃ったことを確認に車中をぶらぶらして挨拶回りをした。メンバーというのは東濃地区の好き連で作る同好会員・総勢100名ほど。半分ほどが初めての顔である。夜行列車にすしづめ状態でスキー客が乗っているため足の踏み場もない。終点の南小谷駅に着いたときは早朝であった。
一行が向かう旅館「K荘」から迎えのバスが来ないので、駅で立ち往生していた。雪が深く、バスの到着が遅れているとのこと。靴にへばりついた雪が溶けて、足の先がとても冷たい。みんな、しびれを切らして歩き始めた。S氏の親戚の人がこのあたりに住んでいるので電話を入れてマイクロバスで迎えに来てもらうように手配したとのこと「待てば海路の日和あり」歩いている人を横目に見ながらすいすいとバスは上がっていく。我々が旅館へ着くこと第一号。昨年も同時期にこの地にやってきているが、旅館が立派な建物に立て替えられたことに驚いた。ここは、コルチナ国際スキー場の一つ、若栗スキー場である。
その日の夜は、よりメンバーを把握している中学校の教員Y氏の指示で、グループに分かれて、若い女性達と一緒にトランプなどのゲームをして交流を深めた。

信州スキー場と仲間たち

   1月5日
朝からまばゆいばかりの太陽が照りつける白銀の世界。夕べ降った雪でスキーコンディションは抜群、ミーはこの光景にどっぷりつかっていることに格段の幸せを感じていた。
今日は午前中、自由に時間を過ごした。ミーは自慢の曲伸型パラレルの練習に励んだ。急斜面のこぶを滑るにはスキー板は平行のまま左右くっつけたまま、山のこぶでひざをかかえ込み、こぶを削るようにスキー板をターンさせ、こぶをスキーエッジで削りながら斜面を滑り降りるものである。結果的にスキーヤーの頭の位置は上下せず、一定の高さをキープして滑降することになり、目で前方のこぶをとらえながら滑られるという利点がある。これは普通にいうウエィデルンの型である。
午後はメンバーをいくつかに分けて、それぞれ指導員がつき、講習を行うように事が運んだ。ミーは初心者の講習を任された。ミー以外の指導者はSとU氏。1グループのメンバーは約10名。愛嬌のある子達が多く、指導にも気合いが入った。指導の手順はまずスキー板をはいたまま斜面を登ることから初め、斜面の傾斜に沿ってスキー板が直角になるようにして、ストックを左右に付きながら、「イッチ・ニー・イッチ・ニー」と小刻みに登っていく練習。斜面に対してスキー板が直角でないと下方に滑っていってしまう。2名ほどの人がなかなかできずに苦心していたが、全員できるのを見計らって、キックターン、直滑降、プルークボーゲンと進む。最後は初心者にとってはきつ過ぎるが、第一リフトに乗って、降りてもらう。降りるときにまずころぶ。ヨッコラショと立ち上がり、恐る恐る下をみると、斜面が急なのに悲鳴を上げる。誰しもが初めてのことでぶっつけ本番、経験することが上達につながる。ここはアドバイスなしで「ころんでとまりなさい!」とスパルタ教育。斜滑降で、滑る技術を教えた。黄色いヤッケの青い帽子の女性が、懸命にミーのあとに付いて滑っている。「こういう場合にはどうしたらいいですか」と聞いてきた。やさしくミーは対応した。それでも脱落者が数名出たがほとんどの受講者は曲がりなりにもついてきた。初めての集団でのスキー指導で、汗をぐっしょりかいた。充実した2日間であった。


1984年 昭和59年
   5月3日  室生寺(むろうじ)の旅

休日としては珍しく早起きした。母を連れ立って、妻と娘とミーの4人で、8時過ぎに自家用車で家族旅行に出発。今日の天気は曇りで、ドライブにはまずまずである。季節がら、樹木の緑が非常に鮮やかで、まばゆいばかりである道中、車の中では、妻と長女はしりとりゲームをして、ひまをつぶしていた。車は桑名から東名阪に入った。あるドライブインで小休憩を取ったとき磁石付きオセロゲームを買って、娘と妻は遊んでいるうち、2人とも車の中で眠ってしまった。
やがて車は針インターに。ここから東名阪を出て、室生寺への道に入った。その道は一つの山越えであった。室生の里にやっと入ったのが11時過ぎ。室生寺に着いたのが11時半頃で、駐車場を見ればそれとわかる大勢の観光客でにぎわっていた。到着後まず、ソバ屋に入って腹ごしらえ。室生川の下の橋から上流の朱塗りの太鼓橋を望むと、春爛漫の五月の花と芽吹いたばかりの樹木の緑が見事に調和して、女人高野の落ち着いた雰囲気ときらびやかな光景を作り出している。「女人高野室生寺」と刻された石碑の建つ表門から境内に入る。古くから女性の参拝が許されていたことから こう呼ばれている。
仁王門の前で皆でスナップ写真を撮った。金堂へ通じる長い石段を上がる。石段の両側には、ほころび始めたばかりの石楠花(シャクナゲ)が幾重にも植えられており、大勢の参拝客の目を楽しませてくれている.
室生寺は真言宗室生寺派の大本山の寺である。石段を上がると金堂が見開け 大勢の観光客でにぎわっていた。平安時代前期に建立された金堂内には十一面観音像、文殊菩薩立像、本尊釈迦如来立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像の五尊像が安置されている。皆で手を合わせてお参りをした。母はこの世の極楽だと感激していた。さらに進むと金堂の左奥が本堂で、その奧の石段を 上がったところに、本寺院の象徴である五重塔が、威風堂々と建っている。石段の両側の斜面に植えられた石楠花が一望に見渡され、見事である。
今日の行程は少し欲張りである。室生寺参拝の後、橿原へ出て、奈良公園へ向かった。というのも、あまりにもお寺巡りばかりで、娘もあきあきしていることと察して、奈良公園で遊ばせようと考えたからである。東大寺の大仏殿前の池に、「ふ」を投げ込んで鯉にえさを与えたり、鹿にせんべいを与えたりして、しばしたわむれた。二月堂の境内から望む夕焼けの奈良は、古代の歴史の香りがするロマンチックな古都だ。と、感慨深く、夜のとばりが降りるのを味わった。

室生寺五重塔 室生寺五重塔


1985年.昭和60年
 4月28日   京都の旅


昨年は父が入院していたためにどこへもいけなかったが今年は絶好の日にいけるので、2人とも大喜びであった。妻と長女を含め5人、ミーの運転で9時半に家を出て羽島I Cから高速に入り、京都東ICで降りた。ここからは一般道で渋滞しており、山科を通過するのに、相当の時間がかかった。やっと岡崎公園前に着いたのが正午であった。湯豆腐の店「今昔」で、1700円の湯豆腐を食べた。両親は昔から遠乗りをしたことがなく、家ばかりにいたので、ミー達の親孝行に感謝していた。長女はレストランで食べたいらしくややつまらなさそうにしていたが、小言も言わずついて回ってくれた。最初にお参りしたのが、法然院である。 法然は鎌倉時代の浄土宗派の元祖である。いぶしぎんに苔むす山門の屋根が美しく、あたりの若葉がまばゆいばかりに春のたたずまいを作っている。山門をくぐれば見事な庭園に心を打たれた。
続いて銀閣寺へ。

銀閣寺 銀閣寺

銀閣寺の参道は大勢の観光客で賑わっていた。銀閣寺は室町時代8代将軍足利義政の造営。義政亡きあと臨済宗の寺となり、義政の法号、慈照院にちなんで、慈照寺と名付けられたもの。通称、金閣寺に対し銀閣寺とのこと。境内に入ると、まず目に入るのが、まぶしいばかりの真っ白な向月台と銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる砂盛り。これは月を観賞するためと、月の光を反射させて、本堂を照らすために作られているらしい。 父が大げさに「極楽を見ているようで」と感激している様子を見て、連れてきてあげて良かったと常々思う。
ここらで哲学の道に平行した道路際の喫茶店に立ち寄り、コーヒーブレイク。
最後は永観堂へ。永観堂の創建は平安時代の弘法大師の弟子、真紹。今日までモミジの永観堂で有名。真紹僧都→永観律師→静遍僧都と時代が変わり、最後は浄土宗の寺となった。境内を1周するのに時間がかかった。本堂のみかえり如来像や狩野派の画人達が描いた屏風絵図、また多宝塔もどれを見ても価値あるものばかりである。
もう帰路につかなければ家路が遅くなってしまう。母が東大谷に立ち寄りたいという提案を出してきた。もう夕方6時近くになってしまい東大谷は門が閉まっていた。やむを得ず門の外からお参りをした。

1985年・昭和60年
8月2日 奈良・斑鳩(いかるが)の里 ・ ぽっくり寺の旅


昨夜から父と母に我が家に泊まってもらい、母が4時に起床し朝食の準備。 5時に朝食。準備を済ませて家を出たのが6時半。朝から快晴で今日も暑くなりそうだ ミーの車で走ること3時間半~行程は長良川堤防、桑名から東名阪道そして奈良~10時には目的地(母が友だちに聞いた情報として行きたいと提案していた)、斑鳩(いかるが)の里、清水山、吉田寺(きちでんじ)に到着した。それは、法隆寺を西へ通り過ぎて少し行ったいったところの左手にあった。およそ寺らしき建物が見当たらず、簡素な木戸をくぐり、竹林の生け垣を抜けると、本堂とその右手に多宝塔が現れた。夏の太陽がぎらぎらと照りつける中、この空間だけはなぜか涼しい。受付で当寺のオクリさんらしき人と話をし、受付を済ませると、ここの住職さんに案内され、本堂の大日如来像の前の最前列に右から妻、長女、母、父、ミーと並んで座った。やがて若い住職が出てきてご祈祷がはじまった。たくさんの木魚のうちの一段と大きな木魚を若住職がたたき、念仏・ご祈祷が始まった。我々は阿弥陀如来像の前でお参りをした。 老住職も加わってのお経、その中で、父、母の名を含んだお経で、ぽっくりとあの世に逝けるよう祈願していると察した。・・・南無阿弥陀仏・・・・と手を合わせ、合掌。


吉田寺と法隆寺

お参りが終わると住職様のお説教があり、「今日が初めてですか」と丁重に尋ねられたあと、この「ぽっくり往生の寺」のいわれを親切に話していただいた。「ぽっくり様は長生きの仏様であり、手を合わせることは幸せを呼び、手をにぎると手のふしがぶつかり不幸せとなる。」などの説教をありがたくしていただいた。「当山は天智天皇の勅願によって創建され、浄土教の先駆者である僧都源信が平安時代に念仏を広め、浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞上人に影響を与えられた。」と説明。「多宝塔はご本尊の栗木の切り株の上に建立されました2重の塔」と続く。
次なるは法隆寺。この猛暑の中、広い境内の法隆寺参拝は年老いた父母にはきついと思われたが、何のその、父は先頭に立って精悍に歩いてゆく。境内は金堂、五重塔、大講堂、大宝蔵院、夢殿、南大門、東大門等々、素晴らしい建造物の数々、釘を使わない昔の建築技術のレベルの高さに驚嘆した。そもそも聖徳太子の607年の造営に始まり、以後、幾多の火事で焼失した建造物を復元され今日に至っていることを思うと、歴史の悠久さを感じぜざるを得ない。
奈良づくめ、最後は東大寺のある奈良公園に向かう。車は人通りの多い繁華街に入り、猿沢の池に到着。さらに興福寺、五重塔が眼前にそびえ立つ。車を東大寺前の駐車場において、大仏殿までその境内を歩いた。東大寺は奈良時代に聖武天皇が建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊としている。
東大寺 東大寺

その大きさは圧巻である。参拝者のうち多くが外国人や修学旅行の学生達でしめている。大仏殿の中に穴のあいた柱がある。その穴をくぐることでご利益(ごりやく)があることから子ども達を中心に列をなしている。娘もくぐりたいと言ってはしゃいでいる。無事自分の力で穴をくぐり抜けた。今日一日、存分に楽しみ、親孝行もできた。

1985年・昭和60年
8月12日   つくば科学博の旅・日航ジャンボ機墜落ニュース


朝8時に家を出る。今日はつくばの科学博へGO!ミーの車で長女と妻を乗せて一路、東名高速道路を走る。愛知、静岡、神奈川県と進み、道中雨であった。しかし横浜あたりから晴れてきた。およそ3時には東京に着いた。首都高速に入り、ガード越しに東京霞ヶ関ビルを見ると、東京に来たのだなと感慨にふけった。長女は小学校3年生にして初めて見る東京の景色に目を白黒させていた。
今夜は東京のホテルに泊まり明日が目的のつくばに向かう。今夜は東京見物と行こう。宿泊は九段会館。近くに日本武道館、靖国神社がある。行きたい場所の占有権は子どもである長女にある。霞ヶ関ビルなら0Kという。霞ヶ関ビルの35階のラウンジに行き、そこから東京が一望に見渡せる。まだ明るさの残る東京はやがて夜のとばりが降りようとしている。時刻は18時頃であったであろうか。ネオンが星を散りばめたごとくネオンが美しいく絶景を作り上げていく。東京湾の方に目をやれば、羽田から飛び立ったと見られる飛行機が見える。ミーは備え付け の双眼鏡でそれをとらえていた。(それが後ほど墜落した日航機とは誰が信じようか)
自分が夕べ見たのはその飛行機かどうかは定かではない。羽田を飛び立った時刻も正確には覚えていないし、一致したところで事故に遭った方々が戻ってくるわけでもない。ただただご冥福を祈るだけである。
霞ヶ関の次は、地下鉄で銀座、銀座の町は格調が高いとでもいうか、他と違って一味違う。夕食をどこかで取ろうと新橋あたりまで歩いてしまった。 JR新橋のガード下のサラダ食べ放題のそれほど高くない店で食事をした。3人とも満足した。食事を済ませたあと、地下鉄で宿に戻ると日航ジャンボ機墜落のニュースが飛びこんできた。東京から大阪に向かう日航ジャンボ機が乗客527人を乗せたまま、相模湾の上空で異常をきたし、方向を変換して羽田へ戻りたいと連絡をしたまま消え去ったという。乗客のなかには前述の坂本九さんや、阪神球団社長もあったという。何という痛ましい事故か。

8月13日

早朝のテレビのニュースで、昨日の18時頃の羽田発の日航機JAL123便が長野県と群馬県の県境に墜落した事故が映し出され、ドキッときた。夕べ羽田から飛びたった日航機ではないかと。調査が進むにつれて、実態が明らかになってきて、坂本九さんが乗客として乗っておられたことを知り何十倍のショックを受けた。自分が夕べ見たのはその飛行機かどうかは定かではない。羽田を飛び立った時刻も正確には覚えていないし、一致したところで事故に遭った方々が戻ってくるわけでもない。ただただご冥福を祈るだけである。
さて、今日は東京をあとにして、一路筑波まで、車を走らせる。首都高速→常磐道・小菅→・谷田部へと。宿を出たのが、7時。筑波の田園地帯に科学博物館がある。9時に仮設駐車場に車を止めて、シャトルバスに乗って会場に向かった。客を移動させるフラットなエスカレーターに乗って会場に着いた。入場料は大人2700円、子ども900円であった。最初に入ったパビリオンは、松下館。9時開門と同時なのに、行列ができ、1時間半の待ち時間。夏の暑い日差しが容赦なく照りつけ、汗はとめどもなく流れる。松下館では富士通、日立といった企業が開発したものも展示されており、エレクトロニクスを生かした古代人との触れあいをテーマにした展示が目を引レーザー光線を使って、土偶の立体像が作られたり、竪穴住居の壁にレーザーによる画像が映し出されている銅鐸の音の再現もあった。しかしメインは長女が目的とする「ロボッ太くん」。これはロボットが人の顔を瞬時に記憶し、墨で描いていくというもの。大勢の人が行列を作り抽選で当たった人のみ体験できる。長女が祈るような気持ちでクジを引いたら、なんと当たり!長女は大喜びであった。ロボッ太くんが長女の顔を認識して紙に書き終わるまでに2分30秒であった。

ロボッ太くんが描いた長女の顔

そして「ありがとう」と言って、長女に手渡してくれた。これには長女も感激し彼女にとって良き思い出になった。当館の2階では液晶226枚を使った大スクリーンの映画をやっていた。次に長女の希望で、世界一の高さ(85m)を誇るテクノコスモスに行った。待ち時間45分、1周15分。最高点から会場が一望の下の見渡せた。最後にソニージャンボトロンの丘へ行きおばけテレビを見た。丁度放映されていたのが日航ジャンボ機事故のニュースで奇跡の生存者が4名いたことを伝えていた。子どもに人気のおもしろチューブでしめにした。全体がチューブになっており、風のトンネル、桐のトンネル、こだまのトンネルなどがあり十分楽しめるものであった。



1985年 昭和60年
   11月3日      伊吹山ジョギング大会

今日は文化の日。この日は昔から晴れの確率の高い日と言われている。今 日もそれにたがわず絶好のジョギング日和となった。この伊吹山ジョギング大会を紹介してくれた男性パートナーが所用のため、今日は参加できず、変わって初参加の女性のOさんとKさんの2人が同行することになった。両手に○○というより、ゼッケンの番号から言って、前後に花といったところか。 朝、8時にJR岐阜駅西広場で待ち合わせ。今日はOさんの運転で、Kさんとミーが同乗。Oさんの車は背の低いク-ペで、少しの振動で天井に頭をぶっつけてしまう。Oさんの運転は女性でも思ったよりハードである。関ヶ原までの道のりは、助手席に座っているミーにとって、時間が長く感じられた。 それも、急発進と急停止の連続で、冷や汗をかいたためだろうか。 岐阜を出発してから1時間ほどで関ヶ原の会場に到着。会場の受付を済ませ、 身支度をした後、開会式が行われた。参加コースは5kmと17kmのいずれかを選択。つまり、伊吹山の一番下からスタートとして山頂駐車場までの全長17kmのドライブウェイを走るのか、下から12km上の平寺越駐車場まで、シャトルバスで、輸送してもらい、上平寺越駐車場をスタート地点として、山頂駐車場の5km区間を走るのか、の2種類である。なんといってもドライブウェイは傾斜がきつく、5kmコースならともかく、17kmコースと言えば心臓破りの超ハードなコースである。それでも長い方に参加する鉄人がいらっしゃることは尊敬に値する。我々は5kmコースで、シャトルバスでスタート地点まで我々を運んでくれた。


伊吹山ジョギング大会

我々は上平寺越駐車場のスタートラインに立った。上空をヘリコプターが舞い、中日新聞社の報道陣がカメラ撮影を行っていた。11時きっかりに発砲音。スタート。
この大会は「岐阜陸上競技会、中日新聞社本社、大垣市陸上競技協技協会」の主催で行われる「第7回伊吹山・中日ジョギング大会」で、ミーがここに参加するのは、今日で4回目。しかしコンディションは一番悪い。咳がずーと出続けて、やまない。スタートは快調に切れたものの、後が続かない。ここで無理をすると遊びに行けなくなる(こどもっぽい)と思い、自重した。要はウオーキングに代えるということだ。ペースを落とすほど、派手なユニホームを着た女性達が軽やかな足取りで追い抜いていく。ここで、奮起できなくなったのは、年を取った証拠だと思う。ドライブウェイといえば足下はコンクリートで固く、頂上に行くほど急斜面となる。ランナーの息づかいもお互いに聞き取れるようになる。「ゴールまであと1km」の表示板が見えてからが苦しい。あと1息の頑張りでゴール。ゴールあたりは丁度日陰になっていて涼しい。
ついに完走した!。その満足感にひたった。ゴール地点に立った係員の測定によるミーのタイムは39分56秒と聞き取れた。今日の調子からいけば、そんなものだろうと納得した。大会本部は完走者全員に完走記念に「認定証」なるものを出してくれた。参加することに意味があり、各自のペースで走るのがこのジョギング大会の目的でもある。閉会式はなく、各自、送迎バスに乗って、帰路についた。
ゴールの山頂駐車場から見る伊吹の山並みは、全山紅葉していて、美しかった。さわやかな汗を流した1日であった。(数年後、この伊吹山ジョギング大会はなくなり、代わって揖斐川マラソン大会として、生まれ変わり、今に、続いている。)



1986年・昭和61年
7月30日 親戚の家族と一緒に。東尋坊・山中温泉・永平寺の旅


今日も明日も天気予報は晴れ。長女が待ちに待った北陸旅行。妻の実家の家族と一緒に旅することは初めてである。それも、長女のいとこのAちゃんと一緒に行けることから、この話が成立したのである。朝8時に親戚のメンバー(義父と義母、義弟と嫁さん、それに姪のAちゃんの5人)が到着。我が家は、長女と妻と、ミーの3人。自家用車はそれぞれの家族1台づつ。長女はAちゃんと一緒の車に乗りたいので、交互に乗り換えてのドライブとなった。 岐阜羽島ICから名神高速に入り、米原から北陸自動車道を走った。道中、休憩を取りながら、亀岡ICで、高速を降りた。国道8号線沿いの竹田川という川のそばの老舗のそば屋に入り、クーラーの効いた部屋で、熱い天ぷらそばを食べたら、たちどころに汗が体からふきだした。
昼の休息を十分取った後、我々は金津町を通り、さらに芦原温泉街を通り抜け、東尋坊に向かった。駐車場に車を止め、奇岩がそそり立つ東尋坊までの区間をゆっくり歩いて、物産店を物見三昧した。越前ガニは本場だけあって、 いたるところで、たたき売りにされていた。また、鉱石を売る店が目を引いた。海岸線まで歩いてゆくと、真っ青な日本海に着き出た柱状節理の岸壁がその雄大な姿を現した。恐る恐るその岩場の上に足を置き、歩いて行く。もしこの岩場で足を踏み外したならば、海へ真っ逆さまに転落してしまうだろう。そんなマイナス思考に身を置くと、身の毛がよだってしまう、先ほど受付でもらったパンフレットには、東尋坊のいわれが書かれている。「その昔、福井県の東部の山間に平泉寺(へいせんじ)という寺があり、そこに極悪非道の僧兵の東尋坊がいた。あや姫という娘を巡って、他の僧兵と取り合いになり、恋のライバルから酒を飲まされ、絶壁から突き落とされてしまった、。以後49日間、海は大荒れになった」とある。さらに、「東尋坊は国の天然記念物に指定されていて、柱状節理の安山岩は、日本ではここだしてけ。世界では、3番目の大きさを誇っている。」


東尋坊 東尋坊

東尋坊巡りの遊覧船が出ており、案内放送の音が異常に大きく感じられた。駐車場に戻り、そこの店でかき氷を食べた。今日、初めて持って行った8ミリビデオが活躍した。 せっかく海に来たのだから、海水浴がしたいと長女が提案し、土産物店で聞いたところ、三国町にある「米ケ脇」海水浴場を紹介を得た。「米ケ脇」海水浴場の浜辺は広いが、見た目海水の色が濁っている。これは海が遠浅のためであろう。海の家を借りて、着替えをすませ、義父と義母に留守番を頼んで、皆で海へ出た。ひんやりとした海水は心地よく、足下はさらさらの砂地で、泳ぐには最適な条件が揃っている。長女は先日仕入れたボードを利用して遊び、Aちゃんは浮き輪を使っての泳ぎ、2人仲良しの姿を見ていて、微笑ましい。思わぬ海水浴までできて、皆、満足であった。
三国町を後にして、今宵の目的地、山中温泉に向かった。国道305号線を加賀市に向けて走り、 北潟湖を右手に見て、加賀に入り、国道名が364号線に変わる。あとは一直線。やがて、山代温泉のホテル街が見えてきた。さらに南に登ると、湯の町・山中温泉の歓迎の看板へと到達した。
予約のSS園ホテルでは、6階の2部屋に入った。12畳の広い部屋で子ども たちは大喜びで、はしゃぎ回っていた。まずは温泉に入り疲れを取る。湯ほとんど無臭の単純泉で、さらりとしている。弱アルカリ性で、肌の角質除去効果があるとされといる。待ちに待った、夕食は大広間で。海の幸が盛りだくさんで、豪勢に盛られたさしみの活け作り。車エビも生きたままのものを賞味できた。 Aちゃんが舞台に上がって、カラオケのポーズ、お茶目な姿が可愛い。長女の方が4歳ほど年上だが、今夜はAちゃんの子分を演じていた。
宴会が終わって、長女と、Aちゃんと、妻と、義父の5人で、当ホテルのマイクロバスで、山中夏祭りが行われている会場に,繰り出した。たくさんの夜店が軒を並べ、大勢の観光客でにぎわっていた。九谷焼の店に入り、花瓶とぐい飲みを買った。九谷焼はここ加賀市山中温泉九谷町が発祥の地。青、緑、黄等を主体とした図柄で、高級感がある。
7月31日
今朝も抜けるような青空。ホテルの屋上にあるプ-ルで子どもたちが、水泳をして、ブルブル震えている。水は澄んでいてきれいだが、冷たい。長女の唇が紫色になっていた。今朝は、というより夕べは、2時に起きて、風呂に入った。丁度その時刻が、男湯と女湯の入れ替えの時刻であったが、何事もなかった。
朝食前に、早朝の散歩にミー一人で出かけた。細長い山中温泉街の一番奥は鶴仙峡という渓谷があり、こうろぎ橋と呼ばれる風流な小さな橋があった。 ここから見るホテルは、川の下流にそそりたつ7階建ての白亜の殿堂と言ったところである。8時にはホテルに戻って、皆で朝食を取り、10時半過ぎにホテルを出た。
今日は永平寺に行くことになっている。加賀インターから北陸道に入り、福井北インターを出た。そして九頭竜川を上り、永平寺町へと進んだ。バス観光客が多く、参道も人でごった返していた。境内の入り口から林立するヒノキの大木は見事。永平寺は道元が開いた曹洞宗の寺。 山門から階段状の回廊を登っていくと仏殿、法堂(はっと)、僧堂、大庫院、浴室・・・と一周し、吉祥閣まで戻ってくる。


永平寺 永平寺回廊

長距離の長旅から、車の中で子どもたちはぐったりして寝込んでしまった。南条のSAで休憩をとって、一路、家路に向かった。5時過ぎに帰宅したが、撮ったビデオの鑑賞会を持って、親戚の家族と別れた。楽しい2日間であった。



  

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